朝、登校していつものように靴箱を開けると、何やら手紙が入っていた。私にとって特に目新しい事ではない。この高校には、古風な奴が多いのか二、三ヶ月に一度はこんな事がある。
 またか、と思いつつ、そのまま洗面所に行って封を空けて中身を確認する。ただ、最近は私が衛宮士郎と付き合ってるなどという噂が流れているので、意外と久しぶりという気はする。
 内容は簡潔に、ただ一文。放課後、屋上で待っていますとだけ書いてあった。
 随分と綺麗な字だ。お手本にしたいくらい。何となく、どこかで見たような字だけど……あまりに丁寧すぎるから、印刷物の字と錯覚しているのかもしれない。どの道、字だけで本人を特定できるほどの鑑定技術なんて持っていないけど。まあ、そんな事は出向けばすぐに分かることだ。
「ふーん」
 一通り眺め終わった後、私はカバンに手紙をすばやく入れる。綾子あたりに見つかったら面倒だからだ。
 おそらくは予想通り恋文だろう。漫画みたいにハート型のシールで封をしているわけではないが、ラブレターなんて案外そんなものだという事を知っているくらいには、この手の手紙を貰っている。
 まあ、男がハート型というのもちょっとアレだが。女の子ならハートのシールを貼るのかもしれないので、ひょっとしたら本当にハートのシールが張られたラブレターっていうものもこの世にはあるのかもしれない。流石に女の子からそういったものを貰った事は無いので断定出来ない。
「……まあ、行ってみるか」
 誰かは知らないけど、答えは既に決まっているからそれほど時間はかからないだろう。相手に一抹の罪悪感を覚えないと言えば嘘になるが、己の本心を偽れるわけもない。
 取りあえず、一時間目は葛木先生の倫理の小テストだ。さっさと気持ちを切り替えて、私は教室に足を向けた。




 と、いうわけで、来てみたわけだが。
「……ったく。人を待たせて、何だってのよ」
 周囲は丸で赤いペンキでもぶちまけたように、真っ赤に染まっている。
 手に持った封筒から、便箋を取り出す。真っ白な便箋には、やっぱり文面は変わる事なく、ただ一言だけ放課後屋上で待っていてください、とだけある。見間違いではない。だが、HRが終わってすぐに屋上に来たのに、人っ子一人いないと言うのはどういう冗談か。
 手紙をどれだけ凝視しても、差出人の名前もイニシャルも無ければ、その目的だって書いてない。ここまでくれば、おそらく、人によってはさっさと悪戯と断定してゴミ箱にでも捨ててしまうだろう。
 当初は、私もそうしようと思った。帰宅部だが、これでも忙しい身。聖杯戦争の後始末は、あらかた片付いたとはいえまだまだ細かい調整は残っているし、自分の魔術の研究、士郎の魔術講座もあるし、イリヤの体に関しても調べないといけない。
 良く考えると、なかなかハードスケジュールだ。別に、苦とは思っていないが時間は足りない。どれもこれも削ることなんて出来ないし、する気もない。結果として、私自身の時間は随分と減ってしまったけど、その辺は別に後悔していない。かなり充実した毎日は、むしろ楽しいとさえ思えるものだった。
 だから、こちらの時間を削ろうとするものは排除しようとほんの一瞬だけ考えた。だが、心臓が一つ鼓動する程度の時間を挟んで思い直した。いや、思い直してしまったとでもいうべきか。
 この手紙が本当に恋文で、しかも差出人が本気だった場合、どうなるだろうかと。この立場に、自分がいた場合どうなるだろうかと。
 そういう埒も明かない事を考えてしまった結果、結局私は手紙の差出人の要望通りに、HR終了後、屋上に足を向けた。
 だが――差出人は、ここで私が一時間ほど待ってみてもまったく姿を現す気配は無い。日が長くなったとはいえ、風が吹き荒ぶ屋上は、夕方になればまだまだ肌寒い空気に包まれる。
 帰ってやろうか、とも思う。そもそも呼び出した側が遅れる時点で、こちらを馬鹿にしていると言うものだ。確かに、手紙には時間が書いていなかった。だが、放課後と書いてある以上、HRが終わればすぐに来るべきだ。一時間も待ってやれば上等の部類だろう。何らかのトラブルで、どうしても来れなくなってしまったとしても、それはそいつの責任。私が罪悪感を背負う必要も無い。
 だが、そんな事は判っていても、足は動いてくれない。
「まあ、いいわ。ここまで来たら乗りかかった船よ」
 誰に宣言するまでも無く、虚空に向けて言い放つ。
 何となく飲み込んだ唾が苦かった。
 そんな私の心中を察した、なんて事は有り得ないと思うけど。背後で錆びついたドアが軋む音が聞こえた。ようやくお出ましか。誰かは知らないけど、遅れた理由くらいはあるんでしょうね。それを聞く時間も、おそらくその後に続くだろう告白とやらも聞いてあげる。でも、悪いけど私は頷けないから。
 手紙を出してくれた人には悪いけど、こんな事はさっさと終わらせたかったのでここに来たのだ。応えは一つ、ごめんなさいとでもしておこうか。
 そう決め付けていたので、背後を振り返ったときに立っている人影を見て、私は柄にもなく頭が真っ白になった。
 ただ、それも一瞬だった。何となく、こんな時が来るのを以前からずっと覚悟していたからかもしれない。



 遠坂先輩は、ちょうど沈みかけの太陽を背負うように立っていた。まるで、燃えているかのようだ。当然だけど、いつも廊下で見かけるよりもさらに眩しかった。
「……遅れて申し訳ありません、遠坂先輩」
 声は震えなかっただろうか。それが心配だった。今の私は、恐怖心が麻痺している。そうでなかったら、こんな事なんて出来ない。だから、一度自分の臆病さ加減を自覚してしまうと、その瞬間にここから逃げ出しかねない。
 でも、自分の耳で聞く分には震えは感じられなかった。
「手紙、見てくれたんですね」
 逆行で、先輩の顔が見えづらい。
「え、あ、うん……」
 だから、表情は確認しづらい。でも、僅かだけど、遠坂先輩は言葉を詰まらせた。いつもは堂々と相手を見据える視線も一定せず、中空を彷徨う。私であると予想できなかったのだろう。そうするように仕向けたから。わざと手紙の文字を崩して書いて、思わしげな文面をしたためた。
 いつも遠くから見ているだけで圧倒されている。多分、どれだけ逆らっても逆らい切る事は出来ないと思う。だから、それくらいの小細工でも味方につけでもしないと、目を見て話をする事も出来ない気がしていた。自分の事くらい、良く知っている。
「突然、お呼びしてすみません」
 大丈夫。まだ大丈夫。
「ちょっと、今日はお話したい事があって……それなのに、遅れてしまってすみません」
「……」
 遠坂先輩は、訝しげに眉をひそめる。それは、そうだろう。ただ単に話すだけなら、ここじゃなくても弓道場とか学校の廊下で会った時にでも話せばいい。いくらでも機会はある。わざわざ呼び出す意味が分からないのは当然だ。
「……ん、まあ、それはいいけど。で、何?」
 でも、本能的に気づいているのか。すぐに立ち直ったかのように、彼女の声はとても澄んでいた。だけど、少しだけ雑音が混じっているように聞こえたのは単なる気のせいだろうか。少なくとも、私には戸惑いの色が滲み出ているように感じられた。だから、と思いたくないけど、それでもう少しだけ落ち着いて話せそうな気が――したのだけど。
「はい……えっと……」
 でも、それはやっぱり気のせいみたいだ。なかなか話を切り出せない。勇気を出そうとしても、出てくるのはただの溜め息にも似た意味の無い言葉ばかりだ。
「あ……」
 だいたい、遅れてきたのも同じような理由。どうしても、怖かったから。ずっと校舎内をうろうろして、いつの間にか時間が経って、結局こんな時間になるまで足が向かなかった。何も考えず、頭を空っぽにしてようやく辿り付いたのは良かったけど、今度は人形のように固まるしかない。
 情けない、とどこかの誰かが己を罵倒する。ここまで来たのなら、後の事など考えずに突き進めばいい物を。未だに、目の前の彼女と敵対する事を恐れてしまっている。
 彼女には勝てない、というのは、自分の中で絶対的な事実となってしまっている。
 父の真意など今となっては判らない。だが、結果的に見て、親から捨てられた自分。そして、親から認められ、その期待に応えて光溢れる道を進む彼女。これは覆らない事実で、劣等感を抱かぬほうがおかしいというものだ。
 多分、負けは確定してると心のどこかで感じている。それは、確信と呼んでも差し支えないかもしれない。それは、自分の自信の無さからくる妄想だと思い込みたい。しかし、最近の先輩の視線は、遠坂先輩に向けるとき、どこか尊敬の色すら含んでいて。そんな視線に敵うわけが無いと思ってしまう。
 もっとも、そんな結論を出してしまう自分にとても腹が立ってもいるのだけど……私の予想は、いつも嫌な事に関してだけは良く当たるのだ。この頭の中に展開される未来予想図は、多分正解だと思う。
 それでも、譲れないと思ったからこんな事をしてるんだ。あの白い少女にちょっと挑発されただけで、ここまでしてしまうほどこれは譲れない物だから。そんなモノでも、他人に背を押されないと行動出来ない自分には、いつも嫌気がさしている。でも、この気持ちにだけは嘘は吐きたくない。
 多分、他のものだと諦めていただろうけど、これだけは譲れないと思ってしまったから。
 遠くから見ているだけだったら。近くにいても、単なる後輩とだけ扱ってもらっていたら。こんな事は思わなかったと思うけど。
 ポケットの中を探る。冷たく、固い金属の感触が指を撫でる。
『桜には負けた。負けたから、これやる』
 古い鍵。
『あのな。毎日手伝いに来るくせに他人も何もあるか。これからは好きにうちを使ってくれ。……その、その方が、俺も助かる』
 そんなコトを言って強引に鍵を押し付けた。
 その冷たさに勇気付けられたのか。自分でもそれは判らなかったけど、何とか鍵を握り締めながら問いかけた。
「……衛宮先輩の事で、少し」
「そう」
 私の言葉に、特に驚いた様子は見受けられない。
 ――やはり、予想していたのだろうか。私が、彼を好きだという事を。私が、遠坂先輩の気持ちを知っているという事を。
 それは、すぐに証明された。
「私に、衛宮の家に近づくなっていうつもり?」
 随分と冷めた目で、そんな事を言ってきた。
「……そうですね」
 簡潔で辛辣な言葉は、案外あっさりと口から滑り出した。言った自分自身、信じられずに思わず口元を押さえてしまいそうになるほどだ。
「……そう」
「……はい」
 しかし、その後に訪れた沈黙は辺りの空気を文字通り重くした。いや、重くしたのみならず、暗くした。本当に、目の前が真っ暗になりそうだった。それが、精神的な眩暈によるものなのか、それとも単に夕日が沈みはじめて周囲が暗くなっていっているだけなのか、私には判断がつかなかった。
 何か、太鼓が打ち鳴らされるような音が聞こえたから、何かと思ったらそれは自分の心臓の音だった。実際にそんなモノが聞こえたのか怪しいけど、確かに私はその音を聞いた。
 それは、ほんの数秒か。それとも数時間か。この程度の事で、随分と私プレッシャーを感じてしまっているな、などと人事のように一頻り嘲笑ったあと。
 理由さえ判らず、思わず吐き気さえ催しそうになった時、唐突に心臓以外の音がはっきりと鼓膜を振るわせた。
「答えは否ね」
 それは、判り切っていたはずの答えだったけど、私の何かを切るには十分な鋭さを持っていた。
 遠くで、風船が割れた。



 それくらいの事はされるだろう。そんな事は判りきっていたから覚悟はしていたけど、やっぱり痛い。流石、弓道部で綾子に鍛えられているだけの事はある。そんな、どうでも良いことが頭に浮かんだのはやっぱり現実逃避からだったのか。
「……」
 頬は抑えない。痛くて痛くて仕方がないけど、桜の感じている痛みと比べればマシだろうし――何より、これくらいは耐えきらないと負けてしまう。
 前を見れば、桜は綺麗に腕を振り切った状態でこちらを睨み付けている。それは、こちらを視線で射殺そうとさえ感じるほど強烈なモノだったけど、怖くはない。鏡がないから確認は出来ないけど、こちらだって似たようなものだろうから。
 この件に関して、一切の弱みは見せられない。
「どうして……」
 桜の声は震えている。それは、怒りのためか恐怖のためか。
「どうして、遠坂先輩が、先輩に――」
 言葉は続かない。それは、言葉にするにはあまりに大きすぎて。
 でも、何を言いたいのかは手に取るように判ってしまう。
 どうして、私が士郎を好きになってしまったのか。どうして、士郎が私と一緒にいるようになったのか。私はずっと先輩が好きだったのに、どうして私が後から横取りをするような真似をするのか。とても目障りだ。いい加減に出て行って欲しい。
 多分、思っている事はそんなところだろう。
 桜から見れば、私は居心地の良い場所に突如現れた異邦人だ。それを排斥しようと思うのは、至極当然な考えだ。まして、その異邦人が自分の大事なモノを明確な意志を持って奪おうとするなら、それは咎人に等しい存在だろう。
 これまでだって、そうだった。衛宮の家で、いつも何かを言いたげに私の方を見つめていた。微笑むときも、ぎこちなく。話すときも、余所余所しく。
 それでも、仲の良い先輩後輩を演じられたうちは、まだ随分と楽しかったのだけど……それも、ここで終わりだろうか。
 それは、判りきった未来。自分の思い通りになんてなるわけがない、虫の良い願い事。
 今までだって、士郎と一緒にいるときに、頭の片隅ではいつも桜のことが浮かんでいた。でも、その事について目を反らしていたことも事実。
 この間、桜が膨らませていた目に見えない風船はずっと空気を溜め込んでいた。結局、空気を抜く機会もないまま膨らんでいって、そうしてあっさり割れてしまった。割れてしまった風船は、もう元には戻らない。
 その風船の切れ端が、この頬の痛み。所詮は破片に過ぎない。風船自身の痛みはどれくらいの物だったのか。
 ……割った張本人である私が考えることではないか。彼女だって、私にそんな事を考えられるのは侮辱と取るだろう。私がするべき事は、彼女の疑問に誠実に答える事だけだった。
「どうしてと聞かれたら、こう答えるしかないわね。私は衛宮士郎が好きなのよ」
 判りきった答えなどはどうでもいいのか、桜は私の言葉に身動ぎもしなかった。
「そんな、勝手な……貴方は、私の気持ちくらい知って……」
 知っていた。確かに知っていた。気付かない方がどうかしている。当人だけが気付かないほど、それは露骨な表現だった。いや、露骨というよりも事実として付き合ってると誤解できるほどお似合いでもあった。
 多分。聖杯戦争など起こらなければ、桜は士郎と本当に自然にくっついたのではないだろうか。慎二の問題はあっただろうが、士郎なら無理してでもその問題を片付けようとしただろう。
 でも、仮定の話をしてももう遅い。
「貴方の気持ちが……私の行動を妨げる理由になるの?」
 我ながら、辛辣だなとは思う。桜から見れば、私は立派なお邪魔虫。これまで、単なる先輩と後輩という間柄でしかなかったはずなのに。本来なら、姉妹として生きていくはずだったのに。なのに、何だってこうやって敵対しなければならないのか。
 だけど、譲れないと思ってしまったら、私は例え誰であろうと我を通す。それが、私が私に与えた性格だ。今更、それを変えるなんて事は出来ない。
「桜」
 ちくり、と胸に針が刺さる。でも、多分言わないと後悔すると思ったから、私は続けた。
「私は士郎が好きなの。それを妨げる権利が貴方にあるの。ただ、少しだけ貴方のスタートが早かっただけ。ゴールはまだ見えない。レースはまだ続いてる。だったら、横から追い抜いても不誠実な事は何も無い」
 それは真実だ。桜の主張には理が無い。そんな言葉に頷く道理は存在しない。
「……っ」
 悔しそうに唇をかむ。耳に届いた歯が軋んだような音は、果たして悔しげに顔を歪める桜のものか、それとも言ってしまったと後悔してしまった私のものか。
 そう、私は後悔してしまっている。出来れば――絶対に有り得ないであろう事だけど、この子とはこんな風に対立なんてしたくなかった。これまで、曲がりなりにも友好な関係を築けていたつもりだけど、これももう終わりだろう。
 果たして、桜との関係を終わりにしてまで主張すべき事だったのか。そう問われれば答えられまい。そもそも、比べる事では無いのだけど……どちらも私にとってはとても重要なことだ。
「……そうですか」
 やがて、どのような結論を出したのか。桜はゆっくりと言った。その声は、怖いと思えるくらい平静だった。
「判りました」
「……ええ」
 簡単に、頭を下げて彼女は屋上を後にした。振り返る事は無い。しっかりとした足取りで、私の前から去っていった。



「へえ、やるじゃない。見直したわ」
「……」
 開口一番にイリヤスフィールがはこう言った。
「どうなるものかと思ったけど、案外骨があるわね」
 普段より随分と遅く帰ってきた、私の表情の変化に真っ先に気付いたのが彼女だった。食事の前に話があると彼女の部屋に呼び出され、何かあったのかと随分としつこく尋ねられた。
 結局、半ば誘導されるように今日の事を話してしまった。正直、他人に話すような事では無いはずだし、普段なら私も絶対に口外しないのだろうが……私もきつい言葉を浴びせられて随分と参っていたのか。最終的には根負けしてしまった。
 その後で、さっきの言葉だ。
「どういうことよ?」
 と尋ねつつ、何となく私は察していた。なぜ、桜があのような行動を取ったのか。桜は大人しい。そりゃ、その奥底は情熱的だしあのような行動もいつかは取るだろうと思っていた。でも、今回はかなり唐突に過ぎる。何の予兆も無かったのだ。
 私に桜を気遣う権利など無いのだろうけど、それでも意識の幾分かは常に彼女に振り分けていた。それなのに、私は桜の変化に全く気付かなかった。ならば、桜の心情はかなり急激に変化したのだろう。ならば、そこを後押しした人物がいると思い至るのは結構簡単だった。
「貴方、桜に何言ったの?」
「別に。ただ、このままだと凛に取られるわよって言っただけよ」
 主語は省いてたけど、何を私に取られると言ったのかはあっさり判った。
「……そりゃ、まあ」
「じゃあ、サクラが可哀想じゃない。ずっと好きだった人を横からあっさり奪われるんだから。でも、サクラの性格じゃ強くは言えないでしょ。だったら、後押しくらいしてあげないと」
 ……随分と意外だ。イリヤは桜をあまり快く思っていなかったみたいだけど。それが、士郎の事で手を貸す真似をするなんて。
「別に嫌いじゃない。サクラ個人はどちらかといえば好きな部類になるわ」
 それにしては、随分と避けていたような印象があるけど。でも、彼女は素直――というわけではないが、不思議と嘘の類をつかない。少なくとも、彼女本人は桜に対して敵対心を持っているわけではないのだろう。
「……」
「私としてはシロウの恋人役はリンでもサクラでも、どっちでも良いわ。シロウが幸せになってくれるならね」
 サクラもなかなか見所があるみたいだし、あそこまで度胸があるなら任せても良いんじゃないかしら。そんな事を、白い少女は穏やかな顔で言い放った。
「ま、リンには嫌な話かもしれないけど」
「……別に、嫌ってわけでもないんだけどね。まあ、何というか。案外、桜って怖いのよね」
 一瞬、遠坂凛の気持ちをぐらつかせるくらいには、今日の桜は迫力があった。まあ、聖杯戦争中でもその片鱗は見せていたけど、あそこまで必死になるっていうのはちょっと意外だった。
「…………わかりません」
 そう言って、きちんと私の目を睨んできた。
「…………わたしには、遠坂先輩のおっしゃる事がわからないと言いました」
 あの時はちょっと嬉しかったものだ。例え負の感情でも、私に気持ちをぶつけてきたのは初めてだったし、正直、桜は気弱なところばかりかと思って心配してたからああいう言葉も言えるんだと思うとどことなく安心したのだ。
 まあ、それらは今では完全に私の不利益となっているわけだけど――それでも、姉としては純粋に嬉しかったりもする。桜の方は、私にこんなことで評価されるなんて真っ平ご免だろうけど。
「でも、どうせいずれはこうなる事なんて判りきっていたし」
 恋敵の登場は全く看過できない事態だが、桜は元々士郎が好きだった。どうせ、いずれは衝突する事なんて判りきっていた。
 だから、本当はショックを受けるべきではないのだけど――でも、やっぱり妹と思ってきた少女に面と向かって睨まれるのはあまり歓迎したくない。だからといって、譲るわけにもいかない。誰かに譲っていいような存在なら、そもそも私は固執なんてしない。
 つまり、対立は避けられない。
「……厄介ね」
 いっそのこと、今日の桜との会話を全て無かったことにしてしまおうか。そんな事も思ってしまう。記憶を操る手段さえ、私は有しているのだから。
 全く、随分と弱気なことだ。勝とうとしてるけど、勝つのが怖いなんて。
 だって、勝ってしまえば桜は悲しむ。桜が悲しむ姿は、正直見たくない。でも、私だって負けるわけにはいかない。何て悪循環だろう。ジレンマだ。
 おまけに、タイムリミットは一年だ。それまでに決着を付けなければならない。もし、決着が付かなければ士郎は私と共に倫敦に行くか、それとも冬木に残るか、それとも――
 士郎の行動は判らないけど、どのみち物凄く中途半端な状態でこの争いは終了してしまう。宙ぶらりんで、誰も――少なくとも私は絶対――納得できないまま、どっちかが勝ち逃げするか、それともどっちも負け犬になるか。
 これは、例え勝っても気分が悪い。いかなる時も優雅たれ、が家訓だというのにこのような状態で勝ちを拾うなど。まるで意地汚いハイエナだ。
 だから私自身は、士郎の進路決定までには決着を付けておく必要がある。桜は、私に早々と出て行って欲しいんだろうけど。
「頭の痛い問題だわ」
 それに、勝ったところで桜との関係の修復は不可能じゃないだろうか。現実的に。
 つまりは、好きな人を横からかっ攫われる形になるわけだ。自分に当てはめて考えてみれば、今この瞬間に何故かセイバーがまた現れて士郎の隣に座るのと同じ事だろう。
 以前なら――好きだと自覚する前だったら、あるいは好きだ時付いてもセイバーと士郎が端から見ても分かり易すぎるくらいの恋仲だったら――応援できただろうし、しただろう。でも、きっかり気持ちを切り替えてしまってる今の状態でセイバーと会ってしまったら、また友達のように付き合えるかどうか自信は無い。
 つまり、イリヤは……桜にセイバーの再来を告げたわけだ。唐突に現れたお邪魔虫。これまで、弱々しく苦々しく見ていただけだった現状を打破するようにと背中を押したわけだ。
「……全く、余計なことしてくれちゃって」
 軽く、イリヤを睨んでみる。もっとも、彼女は外見と違ってこの程度で項垂れるような可愛らしい子供じゃない。逆に微笑んでみせた。
 ……まあ、考えようによっては有り難い事かもしれない。このままだと、私はまるで夜逃げするかのように士郎を連れて旅立っていたかもしれない。それは、はっきり言って優雅ではない。
 そんな方法を採るくらい私は桜を避ける可能性があったのだったら。それを潰してくれたのだったら。私は、この雪の少女に感謝するべきなのかしら。そう思うと、唇が勝手に動いてくれた。
「……こういうのはおかしいと自分でも思うけど。ありがと、イリヤ」



 やっぱりトオサカリンはトオサカリンか。この現状を受け入れ、さらには私に礼まで言うなんて。しかも本心から。
 呆れかえるほどに気丈な生き方。だからこそ、英雄とまで言われたセイバーに認められ、アーチャーには忠誠を誓わせ、衛宮士郎にも本性を見せてなお信頼されたのだろうが。
 まあ、好ましい性格ではある。
「……どういたしまして」
 だから、素直に返事を返す。もうちょっと、姉妹の微笑ましくも危険な喧嘩を見られるかとも意地悪くも思ったけど、どうやら決着は案外早く着くかもしれない。それはそれで、私にとっては好都合な事だ。
 正直、自分がどれだけ長く生きられるか確証はない。かなり長く生きられるかもしれないし、明日にでも死にかけているかもしれない。この世界は、運命というものに抗う事は不可能なように出来ている。だが、私自身にそれを見定めることは不可能だ。だったら、早めに安心できるようにして欲しい。
 ……そう、運命は変えられない。だから、アーチャーという英霊を取り込んだ時に知ってしまった知識――それが、私に焦りを生み出す。
 アーチャーの生前。そこも、この世界と殆ど環境は変わらなかったはず。それでも、アーチャーは誕生してしまった。ならば、この世界の士郎も同じ運命を辿らないという保証はどこにもないのだから。
「さて、お茶でも淹れましょうか。イリヤも飲む?」
 そんな凛の言葉を聞き流しながら、私は今後のことに頭を巡らせた。



「……」
 弓道部、そして衛宮邸での生活から、早くに目が覚めるのは最早習慣となっている。だから、朝になると自動的に目が覚めた。
 だが、殆ど睡眠を取れなかったせいだろう、とても眠い。気を抜くとそのまま二度寝してしまいそうだ。
 ――昨日は、殆ど睡眠時間を取れなかった。制服のまま、ベッドに飛び込んで。そのまま眠ったはずなのに。
「……」
 頭を強く横に振って、しつこい眠気を弾き飛ばす。それでも、頭は軽くならない。
 ――眠気以外が原因で、気が重いのだから。
「……はあ」
 未だに信じられない思いだった。殆ど、その場の勢いだったような気がする。何せ、あの遠坂先輩を引っぱたき、宣戦布告してきたのだ。気が滅入らない方がおかしいと言うものだ。ただでさえ、まだ兄を失ったという実感もないのに。気が弱い自分では、その程度のストレスも重荷になってしまう。
 でも、耐えなければならない。むざむざ、渡してしまうくらいなら――多少、自分の負担が増えることくらい何でもないはずだ。そもそも、このような状態を招いてしまったのは、自分の気弱さから来てしまったことだ。遠坂先輩が衛宮邸に居座り始めた、あの聖杯戦争の日々。そこを、逆に居座り返してやるくらいの事をしなかったのだから。
 遠坂先輩は、女の私から見ても非常に魅力的だ。だったら、それを傍で見ている男の人がどう思うかなど一目瞭然。なのに、私はどこか怖くなって……逃げ出してしまった。
 その結果が、今。
 あの人が、あの人を好きになる。そこに、私が存在できないことははっきり理解してた。だって、怖いから。自分の本性がばれてしまう事が怖いから。
 このまま身を引いてしまえと唱える私が私の中にいる。そうした方が自分が傷付かずにすむと。どうせ自分にはそんな人並みな幸せなど訪れまいと。このまま、普通に単なる後輩として笑っていればいいと。
 だから、このままの関係を維持していこうと思っていた。でも、いざ目の前にその光景が現れるとやっぱり気持ちを押し込めるのは無理だった。
 だから――唐突に、昨日みたいなことをしてみたけど。
「……何してるんだろ」
 それで、何が変わったのかと問われれば、何も変わっちゃいない。遠坂先輩は既に私の気持ちになんて気付いていたし、私もあの人の答えなんて聞くまでもなく判っていた。
 だったら、どうしてあんな事をしたのか。
 自問しても、答えなど一切出ない。いや、答えを出そうともしていない、とでも言うべきか。
 私は、私自身があの人を好きになることを未だに認められない。己が、あの人に相応しくないと言うことを誰よりも理解しているが故に。
 だから、昨日の行動は本当に突発的なものだったんだ。私自身は、表面上何も傷付いてなければならないはずなのに。あの人が近づいてきても、歓迎するべきだったはずなのに。
 そう、心に決めていたはずなのに。
 結局のところ、我慢が出来ずに自我を剥き出しにしてしまった。
 それで、多分気付けた。私はきっと、あの人を憎んですらいる。
 私が手に入れられるはずだったもの。私も手に入れられるはずだったもの。私と笑いあ。えるはずだったもの。
 でも、もうそんな事は有り得ない。いや、これから先には有り得るかもしれないけど、今はまだ――
「……遠坂先輩」
 だから、私はあの時に決別したんだ。何が切っ掛けかなんて関係なくて、ただあの人にだけは負けたくなかったんだ。
 それは、多分に一方的な愛情の裏返しなのかもしれない。でも、あの人にだけは負けられない。いや、負けたくない。あの人にだけは、私の一番大切なものを渡したくなんてない。
 あの人が――先輩と笑い合うなんて見たくない。
 だったら、これで良いじゃないか。
「……」
 そう、思いこむ。正直、怖い。何だか、単に遠坂先輩に対抗するために先輩を出汁にしてる気がする。それは、とても怖い。まるで、私自身で私の気持ちまで歪めてしまいそうで。
「……でも」
 もう、時計の針は戻せない。もう、後戻りなんて出来ない。だったら、前に進むだけ。
 そうする以外、私に出来ることはない。それはとても憂鬱で。でも、それでも……私が出した結果なんだから、私自身でしっかりしないと。
 私自身に勝負事なんて向いてない。それは、誰よりも私自身がよく知っている。闘争本能というものが、私には存在しない。ただ、惰性で生きていくだけ。
 だったら。
「……よし」
 この勝負も惰性で勝ってしまおう。その暁に――先輩の隣の席を取れるんだったら、私でも頑張れそうだから。
『桜には負けた。負けたから、これやる』
 ポケットには、冷たい金属の感触。
 ……大丈夫だ。この冷たい、でも暖かいあの笑みを手に入れられるのだったら、多分私だって頑張れる。だから、早く先輩の家に行こう。ぼうっとしてたら、学校にだって遅刻してしまう。
 私は、顔を洗うために勢いよくドアを開ける。何となく、廊下の空気さえも、昨日とは違う臭いがするようだった。



 朝。衛宮の家の玄関前。そこに、私は立っていた。
 当たり前だけど、鍵がかかっていた。ずっと、この家に鍵がかかっていることなんて見たこと無かったから、少しだけ驚く。よく考えれば、朝早くこの家に来たのは初めてだったのかもしれない。ずっと、あの交差点で待っていたから。
 チャイムでも鳴らそうか。そう思って手を伸ばすと、固い声が聞こえた。
「遠坂先輩」
 正直、彼女の方から語りかけてくるのは予想外だった。
「……桜?」
 振り向くと、そこにあったのは声以上に硬い顔。ずっとあの子の顔を学校とかで盗み見ていたけど、こんなに硬い表情は初めて見たような気がする。昨日だって、ここまで思い詰めた顔はしてなかったと思う。
「……やっぱり来たんですね。昨日まで、朝は来なかったのに」
「まあ、ね。来ない理由もないし」
 昨日のことを思い出す。もう来るなと言った彼女を思い出す。
「朝は弱かったんじゃないんですか?」
「ちょっと、今日は早く目が覚めたのよ」
 それだけ返す。勿論、そんな事はないのだけど。桜も私の言葉を真に受ける気などないようだ。一瞬だけ、こちらを睨む。
「そう……ですか。だったら、いいです」
「いいの?」
 その返答に、私はほんの少し驚く。確か、昨日は来るなと言っていたのに。
「いいです。私と先輩には、遠坂先輩には敵わないモノがあるんですから」
 そう言って、桜はポケットから鍵を取り出して玄関を開ける。鍵を差し込み、回すとガチャリという音がして、鍵が開く。
 ……そういえば、桜はこの家の鍵を持ってたんだっけ。
『え、なに? 桜に鍵持たせてるの、士郎ってば?』
『持たせてるよ。桜は悪いコトなんてしないし、ずっと世話になってるからな。……ああ、その分でいくと遠坂にはやれないが、別にかまわないだろ』
 そんなやりとりをしたのが、頭に浮かぶ。
 桜はと言うと、もうこちらを見ていない。
「……お早うございます」
 そう言って、当然のように衛宮の家に足を踏み入れる桜の後についていって、同じように挨拶をする。
「お早う」
 だが、誰も出迎えない。まだ寝てるんだろうか。
「……土蔵ですかね、先輩は」
「土蔵?」
「ええ。良くあそこで寝てることがあるんですよね」
 桜は、背後の私の方なんて見ずに答えた。
 なるほど。これが桜の言う『敵わないモノ』か。
「……」
 確かに、桜に敵う部分なんてそんなに無いだろう。それは、認めるしかない事実だ。桜が強気になるのも無理は無い。
「……」
 だから、こう言ってやる。
「いい顔してるわね、桜」
 一瞬だけ、桜は足を止めた。それは、私の声に反応してなのか、それとも単に光の加減で私の目にそう見えただけなのかは判らない。そのまま、桜は何事も無かったかのように背を向けて再び歩き出す。
 その背中を見つめながら、思い出す。本当にさっきは良い顔をしていた。対決する目。単なる非難の目じゃなくて、こちらに挑みかかるような目。あの時、聖杯戦争の時に初めてこの衛宮の家で出会った時と同じ目だった。
 そういえば、あの時はこの子がこんなに感情を剥き出しに出来るのかと兎に角驚いた記憶がある。それで、あの時は何も言えなくなったんだっけ。
「……」
 だから、それに負けないように。勢いを籠めて言い放つ。
「でも、最後に勝つのは私だから」
 桜は、その言葉を聞いていないようだった。立ち止まらないしこちらも見ない。ただ、さっさと廊下を迷いなく進んでいく。
「さて、と。士郎に会いに行きますか」
 私も、その後に続く。意外にも強かった妹の背を見ながら。
 もう春を過ぎた今日この頃。家の中の空気は、早朝だというのに随分と暖かかった。

後書き

 ようやく後編を公開できました。長かった……
 桜と凛、HFルート以外、必ず激突しそうなこの二人、前後編とはいえたかが一話ではやっぱり決着は付けられませんでした。というわけで、次回に持ち越しです。
 しかし、難しい難しい。特に桜、何か捕らえどころがないというか。おまけに肝になるテーマだけに、少々じっくり時間を掛けすぎてしまいました。
 次回は、ちょっと力を抜いた物を書きたいですね。こう、ぱっと書けそうなネタで。
 というわけで、次回も宜しくお願いいたします。
平成18(2006)年 4月11日  辰田 信彦